沖縄合宿 ③

Pocket

(10月29日)

喜屋武岬を離れ、メインルートに戻りました。

スマホでグーグルマップを見て次の目標を「平和創造の森公園」としました。

この公園は、

第44回全国植樹祭の開催意義である「平和で緑豊かな環境を創り、次の世代へ引き継ぐこと」を目的に、平成10年4月に開園したそうです。

 

申し訳ないのですが、この公園については、あまり特筆すべきポイントはありませんでした。

 

が、公園を抜けるとといろんな慰霊碑が立ち並ぶ一帯に出ました。ひときわ目を引いたのは

「魂魄之碑」(こんぱくのひ)

碑文を読むと次のことがわかりました。

この一帯は、日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって犠牲になる者が多数でたようです。米軍は生き残った住民と日本兵を収容所へ送ったため、おびただしい戦没者の遺体は戦闘終結後もそのまま残されたそうです。その数約3万5千。

そして、この村の村長金武氏は、米軍と折衝し遺骨収集を進めこの碑を建立したそうです。

 

このほかにも「ひろしまの塔」「大和の塔」などあわせて10基ほどが建立されています。

この地で亡くなった日本軍将兵の出身地の慰霊碑のようです。

ひとつひとつ、見て回りました。キャップとグラサンを外し、黙祷を捧げました。

もはや私の沖縄合宿は、「沖縄戦跡めぐりと慰霊の旅」へと変わったのでした。

 

進むと、四角い建物が見えました。近づき石碑に書かれた説明を読みました。

「へ~~。」と思いました。一瞬の後「スゲー!!」に変わりました。

第二次世界大戦でなくなったすべての戦没者の慰霊のため、ブッダ(釈迦)がその下で悟りを開いたといわれている「ブッダゆかりの聖なる菩提樹」の分け樹がインド国外にはじめて贈呈され、2004年に植樹された。2009年にはダライ・ラマ14世も来訪、記念植樹が行われた。(糸満市のサイトより借用させていただきました。)らしいです。

地味に凄い!!! 中には菩提樹とダライ・ラマ14世の足型がありました。

こんなものがあることを今回はじめて知りました。

ダライ・ラマもここを訪れたのか・・・・・。

 

 

この一帯を抜け、今一度グーグルマップを確認すると、近くに「ひめゆりの塔」があることを知り

次の目標としました。

 

 

近づくと

「ずゐせんの塔」(ずいせんのとう)という碑を発見しました。

 

女子学徒隊は、「ひめゆり学徒隊」があまりにも有名で

この隊以外に8隊が存在していたことを知ったのは、合宿から帰ってからのことでした。

この碑は、県立首里高等女学校の生徒からなる「瑞泉学徒隊」の慰霊碑です。

黙祷。

 

 

ここから「ひめゆりの塔」までは、約400mくらいでしょうか。

「ひめゆり平和祈念資料館」に向かうとその手前に塔が見えました。

(「ひめゆりの塔」は、実はこの塔の左にあるものみたいです。)

 

黙祷を捧げ、資料館の中へ入りました。

沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校の沿革から始まり、

学生の生活等が紹介されています。

 

この資料館で日本軍守備隊、民間人たちが本島南部に追いやられていき

先ほど通過した「喜屋武岬」やその東の「荒崎」から多くの人たちが飛び降りたことを知りました。

米兵たちは「スーサイド・クリフ」と呼んだそうです。

(喜屋武岬に「平和の塔」が建立されていた意味が理解できました。 絶句・・・。)

 

 

 

順路を進むと後半部分に

亡くなった女学生たちの写真が掲げられている部屋へとたどり着きました。

写真の下には、いつ、どこで、どのようになくなったのかが記載されています。

 

私はある顔写真に釘付けとなりました。写真のキャプチャーは、こう書かれていました。

(記憶を元に書いています。)

 

「解散命令が出された後、米軍から逃げ続けたがついに追い詰められた。最後は、隠れていた場所から出て

米兵に向け「私は皇国女性だ! 私を撃ちなさい!」と叫び、眉間を拳銃で撃たれ死亡。」

 

絶句しました。

その写真の学生が真っ直ぐにこちらを見ています。いろいろな思いが胸中に去来しました。

 

この合宿に入るまでの約1ヶ月前のアメリカ遠征で出会った人たちを思い浮かべました。

昔、フレンドリーで親切に接してくれた人達のいるあの国と戦争をしていたのか・・・・・・・・・・・・・・。

 

資料館を出て次の目標「平和祈念公園」を目指しました。

 

つづく

にほんブログ村 その他スポーツブログ トレイルランニングへ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です